蝦夷(北海道)の地図

伊能忠敬による実測調査が行われるまで、蝦夷(北海道)は、日本列島が描かれた地図に描かれるとき、実際とは大きく異なる形や大きさもかなり小さく描かれてきました。たとえば、子供や、大人でも、世界地図を手書きで描いてみると、大陸の形でもかなり大雑把なものとなり、まして国境線などはかなり曖昧で、国の位置関係も定まらないことが多いのです。実益や関係が薄い地域や、国であればあるほどそのような傾向があります。

「蝦夷地」とは、そもそも大和朝廷の支配下に入るのを拒んだ人の住む地域のことであり、時代により範囲は異なり、定義づけが難しく、あくまでもその地を支配していった側からの定義に過ぎません。奈良時代では中部地方から東が蝦夷地であり、日本が統一されてゆくに従い、次第に東、北へと蝦夷地の範囲が狭まってゆきます。

やがては日本人がアイヌの居住地である千島列島、や樺太も含めた現在の北海道のことをいうようになりました。アイヌは北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた、国、領土という概念や文字をもたない民族であり、現在でも日本やロシア地域に居住しています。言語、習慣もも大きく異なります。13~14世紀になって、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われたあたりからその文化がわかってきたといいます。

彼らが暮らす現在の北海道という島は、古代よりその存在は知られてましたが、この地が地図上にあらわれた記録があるのは1471年に朝鮮で著された『海東諸国紀』です。その100年後、ようやく日本地図に現れます。このころ北海道南端に松前氏が成立し、豊臣、徳川政権に服属し、日本も幕藩体制に組み入れらます。幕府の命令もあり各藩(国)の絵図の提出が求められますが、ほぼでたらめな地形、島の内部もほとんど把握されず、真ん中に大きな湖が描かれたりしています。一方アイヌ由来の地名も多く書き入れられていました。19世紀に至るまでさまざまな形や大きさで描かれ続けました。

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