続・蝦夷(北海道)の地図

伊能忠敬と、間宮林蔵による樺太も含む、蝦夷地の実測データに基づく1821年の「大日本沿海輿地全図」でようやく、ほぼ現在の地形や大きさに近い蝦夷の地図が完成します。しかしそのとき島の内陸部についてはなにも描かれていませんでした。

これを明らかにしたのが、1818年、現在の三重県に生まれ、幕末から明治にかけての探検家の探検家、松浦武四郎でした。旅への情熱をいだいていた武四郎は、旅をしながら長崎で僧侶となりますが、長崎でロシアの動向を知り、蝦夷地の危機を感じたことをきっかけに、1845年、28歳のとき初めて蝦夷地に渡ります。北海道、樺太へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺したといいます。道案内をしたのは先住民であるアイヌの人たちでした。そこで寝食をともにし、たくさんのアイヌの文化、習俗を知り、親しみました。武四郎が記録した「東西蝦夷山川地理取調図」では、内陸部の山や川が描かれ、アイヌ語の地名が書かれています。

1869年(明治2年)には明治政府の命で開拓判官の役につき、蝦夷地に「北海道(北加伊道)」の名をつけます。武四郎は先住のアイヌが自分たちの土地や土地に生まれた者を「カイ」と呼んでいたことを、彼らから聞いていたため、アイヌ文化を尊重し、「カイ」という文字を入れたといいます。地名もアイヌの言葉をもとにして名付けたといいます。

江戸時代にアイヌの人々を苦しめていた、特権的な商人が松前藩や幕府から蝦夷地各場所の経営を請け負う「場所請負制度」の廃止を強く訴えていましたが、それはなかなか実現しませんでした。翌年、新政府の、アイヌへの抑圧、弾圧が強めてゆく方向に反対し、この職を辞し、長年の功績により与えられた勲章も返上しました。その後も故郷の近畿の山地を調査し、70歳で富士登山をしたという記録が残っています。

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